HOMEお知らせ日本古写経研究所法蔵部『長阿含経・十上経』漢訳に見える説一切有部の”侵食” 

法蔵部『長阿含経・十上経』漢訳に見える説一切有部の”侵食” 

平成26年度国際シンポジウム発表要旨
辛嶋 静志(創価大学国際仏教学高等研究所 教授)

Daśottarasūtra(“十上経”)は「十ずつ増す経典」の意味である。仏の教えの主要な概念を一法から十法まで順次説き、その各法は十項目から成る。例えば第一法は、一つの法を十個列挙する。第二法は、二法からなる範疇のものを十項目列挙する。このように「十ずつ増」して、第十法は、十法からなる範疇のものを十項目列挙する。計五百五十項目を説く経典である。この経は、古くはかなりポピュラーな経典であったようである。今日でも次の五つのヴァージョンが残っている。
(1) 『長阿含経』中の第十経『十上経』:法蔵部
(2) パーリ『長部経典』中の第34経Dasottarasuttanta:上座部
(3) 安世高訳『長阿含十報法經』:説一切有部
(4) ドイツのトルファン探検隊が発見した梵語写本Daśottarasūtra:説一切有部
(5) パキスタンで発見され、まだ未公開の梵語写本断簡:(根本)説一切有部
これら五つのヴァージョンの大きな枠組みはほぼ一致しているが、一法から十法の各項目を比較すると、かなり異同がある。しかも、興味深いことに、その異同がそれぞれの部派の主張を反映している場合があるのである(例えば、「中有」の有無)。言い換えれば、上の五つのヴァージョンは、個々の部派がそれぞれ伝え持っていた原典“十上経”を、それぞれの部派の主張に合うように改変したものと言える。概して、最初の二つは近似していて、これは法蔵部と南方上座部との関連を反映している。一方、後の三つはいずれも説一切有部系であり、殆ど一致する。
上述のように、法蔵部の漢訳『十上経』と説一切有部の安世高訳・梵本とで、列挙された内容が一致しない項目は少なくない。他方、漢訳『十上経』には、次の二つのグループの間で、内容が大きく異なる項目があり、それは第三法と第四法に集中している。
(A) 高麗蔵・金蔵・房山石経・天平十二年御願経・聖語蔵・金剛寺蔵古写経
(B) 宮内庁図書室本(旧宋本)・資福藏・磧砂藏・元・明・清版
非常に興味深いことにBグループの列挙内容は、説一切有部の安世高訳・梵本のそれと全く一致している。これは何を意味しているのであろうか。
一〜二法、五〜十法にも、漢訳『十上経』と安世高訳・梵本との間で一致しない項目がかなりあるから、当然、本来、三・四法でも一致しない項目があったと考えられる。ところが上記Bグループの三・四法の記述は、安世高訳・梵本と一致している。だから、Aグループの読みが本来的で、Bグループのそれは改訳された結果と考えるのが自然であろう。しかも、その改訳者は、おそらく梵語で書かれた原典を手にして、内容が明らかに異なっている部分だけ、漢訳『十上経』に改訳の手を入れたと考えられる。そして、そのテキストは、安世高訳・梵本と同じ系統のもの、すなわち説一切有部のテキストに他ならない。
しかし、なぜ三・四法だけを改訳したのか。誰がしたのか(訳語を見る限り唐代以前と思われる)。疑問は尽きない。また、どうしてBグループにだけ伝わるのか。古写経や大蔵経の研究者の意見をお聞きしたい点である。この事実から、『長阿含経』全体にわたって、Bグループは訳出後の改訳を伝えている可能性があり、安易にそれらの読みを採用するのは慎まなければならない。さらに言えば、この場合と同様に、一度訳出された漢訳経典が、後に別の原典(梵語やインド口語で書かれた)を手に入れた者が、部分的に改訳した事例も、意外とあるのではないかと思われる。
Bグループは、南宋版系の大蔵経である。他方、Aグループは、北宋の開宝蔵系と契丹版系である。唐代の都長安の一切経写本の系統を引く、南宋版系の大蔵経の方が、”良い”テキストであり、それに対して開宝蔵系の大蔵経は、蜀(四川省)という田舎に流布していた雑多な写本を纏めたもので”良い”テキストではないという説が根強くある。しかし、筆者は、『正法華経』・『妙法蓮華経』・『道行般若経』のテキスト研究で、開宝蔵系の高麗蔵・金蔵の方が本来の読みに近いことを示してきた。その判断の基準は梵本との関係である。『十上経』の例もまた、梵本との比較によって、明確にそして客観的に、開宝蔵系と契丹版系が本来的で、南宋版系の大蔵経に改訳の後があることを示している。中原地域は中国文化の中心であり、インドから次々と新しいテキストが届いたであろう。それを翻訳することの出来る人材もいたし、また従来のテキストを改変する教養と自負心をもった出家者が数多くいたに違いない。それに対して、中国文化の周縁に位置する蜀では、古くから伝わる経典を朴訥と守り伝える伝統があったのではないだろうか。言語も同じであるが、周縁の地域こそ古いものを伝えている。漢字文化の周縁である日本に残る金剛寺蔵『長阿含経』もやはり古い読みを保持している。今後の漢語仏典の研究において、日本古写経の重要性を証明する一事例である。

お知らせNews

月別
アーカイブArchive